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01.19
Fri
「私たちがよく使う『平和』という言葉の中の『平(たいら)』は

力を持つ者が全ての者の個性を認めず、平らかにならしてしまうという意味が込められている。だから、その時点ですでに武力制圧を認めてしまっていることになる。言霊のエネルギーの強さに気付いている人はなおさら、気を遣わなければいけない。『調和』と言い換えて使えば、全ての個性を認め合いバランスをとることが出来る。」



そう言われてみれば「平定」という言葉にも「武力により、まつろわぬ者を平定」という語感はつきまとう。



なお、「PEACE」の語源はラテン語「PAX(平和、講和)」であるが、このPAXは「借金を返済して債権者をなだめる」を意味するPACAREの派生語とのこと。つまりPEACEとは本来「金品のやりとりによって紛争を調停する」ことにほかならなかった、ということになる。なおPAY(支払う)もPACAREから生まれた言葉とのこと。



「平和」という言葉を分析。「和」であることが「平」なのではなく、「平」であることが「和」なのかもしれない。「平」は「落ち着いていること」「高低や凹凸のないこと」、「和」は「うまく調和のとれていること」「対立や疎外がなく、集団がまとまっている状態」。この二つの言葉に互換性はあるのだろうか。僕が思う「平」とは「ある概念に基づいた直線」なのだ。その概念とは、「相対的人口」である。日本は少子化とか言っているが世界的に捉えれば逆に多いくらいに思える。微妙なバランスなのかもしれない。今ある日本の悲惨な状態が「平」なのであり、「和」に近づくことが「人間の営み」なのかもしれない。日本人は今まで「和の心」を大切にしてきました。「和を保つことが、善し」という考えがあったのです。でも現代ではその考えは揺らぎ始めています。「和」は主語ではなく、あくまで形容詞的な存在で、影で「平」を支える「縁の下の力持ち」でなければならないと思います。「和」は「対立や疎外がない」状態ですが、それは成立するのだろうか。それは不可能に近いだろう。なぜなら、そこには「愛」があるから。「愛」という言葉の裏には「憎」という二面性が潜んでいる。「平」と「和」という二つの矛盾した言葉を組み合わせたところで誤った考えが生まれるだけである。災害も秩序を喪失させる・・・自然にまで喧嘩売るのかよ。てめえに個性なんざ高価すぎるわ。自然の前に人間は無力であるから。愛は人間だけの概念。自然は人間を愛しているのではなく、常に何かを警告しているのだと思う。それが恩恵だろうと災害だろうと。台風は大量の水を齎します。辻風は植物の種子を遥か遠くに運びます。

(ここは間違ったことも書いてある可能性もあるので適当に流してください)





複雑化してきたね、まとめようか。良く考えてみると、上に立つ者は全体を把握しなきゃいけない。そこに暢気な顔をした個性を手に余るほど抱えた連中が部下になる。個性を認めてくれる上司にしか付いて行きたくないとか。職に就けない身なので生意気なことは言えないが。そんな完璧な上司なんて果たしているだろうか。個性を認めないことが果たして武力制圧を認めることになるのだろうか。ある程度は必要である。でも人間は欲張りだ、更に個性を追求する癖がある。それはこの時代、最も荒々しくそして野蛮な、食い止めなければならない真実である。僕は個性が人間が成長してゆくのに欠かすことの出来ないものだと思うし、他人の個性を否定する気もありません。でも、行き過ぎては駄目です。そこはあくまで冷静に一考してください。



最後は心で決めなさい--------------------by M



「平」という言葉の存在と意味を否定することはできませんが、人間は一考して疑問を持つことができます。そう、上の僕の意見のように。それにより「平」という言葉の本質を少しばかり変化させることができました。「武力」は確かに悲惨で無常なものです。私自身、「アメリカが銃社会でなければどんなに良いだろうか」などと夢をみるときがありました。「個性を認める」というのは普通に考えれば良いことです。最低限の個性はなければならない人間の権利です。ですがそれが行き過ぎると「ゆとり教育」なんたるものが産まれます。これは大人達の完全な「育児放棄」に他ならない気がします。個性を認める振りをしてそれを思いっきりぶっ壊しているような感じです。危ない宗教と同じです。個性って求めれば求めるほど遠ざかってゆくものではないでしょうか。無理矢理掴んだ個性には虚偽が感じられます。個性という言葉の概念そのものがおかしい気がするのは私だけだろうか。



「力を持つ者が全ての者の個性を認めず、平らかにならしてしまう」=「武力制圧」=「相対的人口に基づいた直線」=「平」



過剰な愛は反逆しか産みません。この現代に限ってですが。こうしてメディアにこの文書を記録できること自体、歴史を変えてしまう一因になるのではないかと不安です。(じゃあ書くな)「平」は常に発動していて、何かを警戒しています。それが顕著になってくると、能力を最大限に活かすための準備段階に入ります。現代ではすでに「平」が超臨界状態に達して、暴走は止まる気配がありません。「平」は良い意味の言葉ではありません。しかし人類が、いや、この地球が生存を継続するために必要なシステムである。「和」はただ単に「対立や疎外がなく、集団がまとまっている状態」の意味ではない気がします。と言うのは、ありえないんです。前記の意味は矛盾しているんです。「和」の本質を摩り替えてしまい、本当の意味を忘れてしまったのです。



「和」の本質とはなんだろうか。「平」の本質と対を成すものであることは確かです。「和」は素晴らしき日本人の粋からやがて過剰な愛へと進化を遂げました。「和」の本質の変化具合を監視するシステムが「平」なのです。そう、「子」を育て成長を見守る「親」のように。本来はこうでなければなりません。しかし現代では逆です。「平」は子の反逆、「和」は過剰な愛に進化を遂げ、戦争へと至ってしまいました。もう罰を受け、罪を償ったはずです。日本人が昔描いた心意気を、今取り戻すべきであります。「和」の本質は「平」である子供達が学ばなければならない全てです。「平和」とは、人間だけのものでしょうか---------------
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